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【化学物質の脅威⑦】先が見えない裁判

【化学物質の脅威⑦】先が見えない裁判

衣料品メーカーの中国工場で責任者を務めていて膀胱がんとなった新田徳(仮名)。会社との戦いを避けて、国の労災認定却下の判断について裁判に訴えることにした。しかし道は険しい。(立岩陽一郎)

「19年12月に三度目に再発。三か月ごとに観察をしている状況が続いています。仮に再発したら、がんの部分を削り取らないといけません」。

21年1月9日、久しぶりに新田に会った。コロナ禍でなかなか会えないのだが、会えば会ったで、淡々と自身の状況を話すその内容に、いつもながら目眩を覚える。

新田の務める衣料品メーカーは大手総合商社の傘下に入った。会社は勿論、親会社も全く対応しない。社名を挙げて書きたいところだが、新田から止められている。

新田が自身の体調のことで会社ともめていることは既に、社内で広く知られている。あからさまに何かを言う人はいないようだが、孤独を感じることは多いという。針の筵(むしろ)という状態だ。

それが、コロナ禍で新田の在宅勤務が認められた。膀胱がんによって新型コロナへの感染が重篤な症状を招きかねないということで、会社が了承した。20年6月以降は在宅での勤務となっている。

会社名を明かさないのは、新田も会社との全面的な争いには踏み切っていないからだ。そのかわり、新田は国を訴えた。労災を認めなかった国の決定の取り消しを求める内容だ。

東京地裁で20年8月19日に東京地裁で最初の口頭弁論が開かれた。新田は、「来て頂けたら」とラインで連絡してきた。私は伝えた。

「テレビドラマの様なドラマチックな法廷にはならない。直ぐに終わる。あっと言う間で、裁判官が『次の弁論期日は?』と確認する程度だ。だから行ってもあまり助けにはならないんだよ」

コロナ禍ということもあるが、さすがに、法廷劇無き裁判を見に大阪から東京までは行けない。

「国の訴訟代理人の状況や裁判官の雰囲気だけでも頭に入れておいてくれ」。

そう書いて送った。

当日の裁判所から出てきた新田からラインが来た。

「本当に短いので驚きました」

裁判官や国の訴訟代理人のことを見る間もなかったという。

裁判で、新田はこれまで議論してきたことを主張をしている。

「業務により膀胱がんを発症したのは間違いなく、労災を認めない国の決定には誤りが有る」。

また、喫煙歴の無い40代という若さでの膀胱がんは医学上、あり得ないとも主張。

これに対して国は、原因となっている有害物質が特定されておらず、労災と認めることはできないと主張。これも予想通りの主張だ。そして分は明らかに国にある。それ以上の主張は必要ない。立証責任は新田にあるからだ。

裁判はその後2回の弁論を経て、21年1月から進行協議に入っている。2月18日に、裁判長が次の様に言った。

「有害物質との因果関係が立証できないのであれば、有害物質以外から膀胱がんになった可能性が無いことを医学的、疫学的、それ以外に無いということを消極的な方向で立証してください」

この言葉に国側は焦っただろう。新田の弁護士も驚きの表情を浮かべて新田を見た。新田も、光明が見えた気がした。

この裁判長の言葉を無茶な話と思う人もいるかもしれない。しかし実際には合理性は裁判長の言葉にある。業務上の化学物質による健康被害を立証するのは困難だからだ。このシリーズで紹介した印刷会社で発生した胆管癌のケースを思い出して欲しい。高齢者に見られる胆管癌が若い従業員に異様に多く発生しても、それを作業場で使われている化学物質と関連づけて考えることはできず、結果的に放置された。

そして労災が認められた今、国は、胆管癌を発症した人に印刷会社での勤務実績が有れば労災を原則認める対応をとっている。それまでの高いハードルが嘘の様な状況だ。加えて、国立がん研究センターと大阪市立大学医学部とで、胆管癌の治療を行うとともに、職業癌に対する包括的な治療に着手するプロジェクトも始めている。大阪市立大学医学部は胆管癌の事案を取材した際、その取材を医学的な見地からサポートしてくれた医療機関だ。そこが主体となり、国からの助成金も使って、化学物質被害を止めるための新たな取り組みが始まっている。これについては別途、詳しく書いていきたい。

話を新田に戻す。進行協議から出てきた新田から、大阪の私に電話が入った。新田は少し驚いた様子で裁判長の言葉を言った。

「え、裁判長がそんなこと言ったのか?」

私も驚いた。それは原告、つまり新田にとってはかなり有利な材料だ。中国での調査はコロナ禍では不可能だが、仮に行けたとしても、裁判所が納得するような材料を見つけ出すことは困難だ。そう考えていると新田が言った。

「裁判長は担当を変わるそうです」。

え?なんだそれは?

「次の進行協議から別の裁判長に担当が変わるそうです」

私は嫌な予感がした。

(つづく)

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