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【司法が認めた沖縄戦の実態⑬】日本兵は立ち退きを拒否すると「みんな殺す」と日本刀を抜いた

【司法が認めた沖縄戦の実態⑬】日本兵は立ち退きを拒否すると「みんな殺す」と日本刀を抜いた

アメリカ軍の激しい砲弾と日本兵の横暴に翻弄された沖縄県民。その苦しみは援護法という理不尽によって戦後も続くことになる。(写真:沢岻孝助さん提供/ 文箭祥人)

「父は村役場の課長、母は人を雇って農業をしていて、生活は裕福でした」

原告の沢岻(たくし)孝助さんは陳述書で、沖縄戦が始まる前の生活をこのように書いている。沢岻さん家族は、西原村幸地(今の西原町幸地)で暮らしていて、幸地の20%の土地を所有していた。沢岻さんは沖縄戦当時11歳、多くの生徒が着物で通学していたが、学生服を着ていた。

西原村は、陸軍の司令部が置かれた首里や日米両軍の戦場となった浦添の隣に位置する。

沖縄戦によって、当然の様に沢岻さん家族の裕福な生活は一変する。

日本兵に家を追い出される

アメリカ軍が沖縄本島に上陸する直前の1945年3月、沢岻さんの家に日本兵がやってきた。西原村にはこの頃までに日本軍が駐屯し、役場にも学校にも兵隊が入っていた。

「私の家に日本兵がやってきて、私たち家族は家を追い出されました」

この連載で常に語られる逸話だ。日本兵は沖縄県民を追い出すことを当然のこととして行っていたことがわかる。沢岻さんは両親、4人の妹とともに、近くにある先祖の墓に避難する。この時、兄は防衛隊にとられていた。この防衛隊については既に説明している。

墓での避難生活は3か月近く続いた。墓の周辺には所有する畑があり、芋や野菜が取れ、豚や山羊がいて、食糧が枯渇することはなかったという。

このころ、墓から数キロ先の浦添では、日米両軍が激しい攻防戦を繰り返していた。

ある夜、墓にキャベツをかじりながら、一人の日本兵がやってきた。

「6月中旬だったと思いますが、すぐに墓を出るようにと私たちに言いました」

日本兵の説明は、明日の朝にはこの辺りにアメリカ軍がやってくるということだった。

これに対して、父が拒否する。

「どうせ死ぬのなら墓の方が良い、と父が言いました」

すると日本兵は日本刀を抜いたと言う。

「捕虜になったらスパイになるから、墓を出ないなら子どももみんな殺す、と言って日本刀を抜きました」

日本軍は、軍の機密を知っている住民がアメリカ軍の捕虜になれば、日本軍の情報をアメリカ軍に漏らすのではないかと猜疑心をもっていた。

恐らく緊張した時間が流れたことだろう。父は墓を出ることを決める。墓から追い出された沢岻さん一家は南部に向かう。

その夜のうちに、直線距離にして約10キロ南の東風平に着く。日中はアメリカ軍の攻撃があり、移動できず、次の夜、避難を再開し、さらに5キロ南の真壁村新垣(現在の糸満市新垣)にたどり着いた。沢岻さんは次のように陳述書に書いている。

「馬小屋を見つけて、その中に入りました」

亀甲墓と呼ばれる頑丈な墓ではなく、弾が当たれば簡単に燃えてしまう馬小屋に何十人もの人が避難していたという。偶然にも、沢岻さん家族は兄とここで再会した。

このころ、首里にあった司令部を放棄し南部に後退した日本軍は、南部の八重岳、与座岳一帯に兵を配備し、防衛線を築き、戦闘を継続しようとしたのだ。一日でも長く沖縄にアメリカ軍を足止めさせて、本土決戦準備の時間稼ぎのためだったとされる。

実は、この新垣が極めて危険なところだったことは、避難してきた沢岻さん家族には当然ながらわからない。新垣は日本軍の防衛線のすぐ南側にあり、新垣から見える南側の海にはアメリカ軍の多数の艦船が包囲していた。こうした逃げ場がないところで、沢岻さん家族は馬小屋に避難していた。

沢岻さんの陳述書にもどる。

「新垣に着いた翌日、夜が明けて少し経った時、雨のように砲弾が飛んできて、馬小屋にも直撃しました」

沢岻さんは直撃を受けた瞬間、何が起こったのか、わからなかったという。

「気が付いた時には馬小屋に潰されて閉じ込められていました。頭から足まで全身が激しく痛みました」

助け出そうとする人はだれもいない。閉じ込められたままだ。意識も途切れ途切れになっていたという。そして、閉じ込められてから二晩目の夜、大雨が降り出す。

「雨が降ったことで、体を動かす力が少し出てきて、次の朝、何とか自力で這い出しました」

脱出した沢岻さんが見た光景は、ペシャンコになった馬小屋だった。

家族はどうなったのだろう。

「両親、兄、4人の妹の姿はありませんでした。ほかの人も誰もいませんでした」

大雨が降る中、沢岻さんはただ一人、パンツ一枚で地べたに座り込んでいた。頭と足にけ

がを負ったが、治療することもできなかった。

アメリカ軍の孤児院へ

それからおよそ3か月後、沢岻さんはコザ(今の沖縄市)のアメリカ軍の施設にいた。孤児院だ。沢岻さんは陳述書に次のように記している。

「孤児院には何百人もの子どもが入っていました」

アメリカ軍は占領政策の一環として、孤児院を開設した。それについて沖縄県史に次の様に書かれている。

「多くの著書が孤児院の数を10か所としており、1000名の孤児が収容されていたと記述されている。どの時点で収容児童数1000名であったかを示す公式文書の存在を確認することはできない」とある。アメリカ軍の管理下にあった戦争孤児の正確な統計は現時点で見つかっておらず、実態の把握ができていない。また、沖縄県史にはコザ孤児院については、「5月下旬、戦災を免れた二軒の民家を接収し、建設を始めた。南部から運ばれてきた孤児たちを次々と収容していった」

沢岻さんはここで妹4人と再会する。その時、妹たちに両親と兄の消息を尋ねた。

「4人とも、わからないという返事でした」

両親と兄のその後はわかっていない。遺骨もいまだ、沢岻さんのもとに帰ってきていない。

沢岻さんは両親を亡くしたことでいろいろな苦労をしたという。

「妹たちが中学校を卒業してすぐ、女中などに出されるのはかわいそう、高校に行かせてあげたい」

沢岻さんはある病院の院長から、養子にならないかと声をかけられる。そして、将来のために医療の専門学校に通わないかと言われる。しかし、それでは、給料が出ない、と養子の話を断る。そして、妹たちを学校に通わせるため、那覇に出て港湾関連の仕事などに就いた。沢岻さんはつぎのように語る。

「小学校1年からの夢であった医者になることはあきらめました」

そして、4人の妹は全員、高校を卒業した。


「指も足も切れていないから認められない」援護法

沖縄戦が終わって十数年が経過した。24歳になった時、沢岻さんの全身を原因不明の痛みが襲うようになる。治療を受けるが、痛みは治まらず、病院を転々とする。ある病院で痛みの原因が判明した。

「脊髄に弾の破片が入っていることがわかりました」

麻酔なしの6時間に及ぶ手術を受けた。

破片は取り除かれたがその後遺症に悩まされる。沢岻さんは60代に入ってから、「寒くなると体がしびれる」という症状がでてきたという。そして、81歳になり、精神科医から外傷性精神障害だと診断される。

「戦争を受けた人にしばしばみられる症状だ。24歳のときの全身の激痛が破片によるものであれば、もっと早く痛みが出たはずで、トラウマ性の身体障害の疑いがある」

沢岻さんの沖縄戦被害は、日本兵による墓からの追い出しによる。援護法では、こうした場合、「日本軍への壕の提供」とされて、援護の対象になる。

沢岻さんは沖縄県に援護法適用の申請を行った。ところが、認められなかった。その理由として言われたことを沢岻さんは陳述書に書いている。

「県に、指も足も切れていないから認められないと言われました」

(つづく)

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